
こんにちは!Hirokiです!
ブログでは書いてなかったので、息子の癌の経過について記載します。現在闘病中の子供たち、そのご両親にとって勇気の出る記事になれば幸いです。
ユーイング肉腫発覚から寛解までの全て
この記事に、闘病生活の全てを記載します。
小児癌の発覚までの流れ
我が家の場合はラッキーだったかもしれません。当時小学3年生だった息子を連れて、家族で温泉旅行に出掛けました。これが同年8月の出来事です。娘と妻は一緒に温泉へ、息子と僕も一緒に男湯へ。
誰もいなかったこともあり、息子は温泉ではしゃいでいました。そして露天風呂に飛び込んだ際にお尻を強打し、痛い痛いと泣いていました。僕自身サッカーをしていた経験から尾てい骨を痛めることなんて日常茶飯事で、「飛び込んで打ったなら痛くて当たり前」と気にしていませんでした。数日経つと息子も痛いと言わなくなり、平和に過ごしていました。
すると2か月後、全く同じ場所が突然痛くてたまらないと泣きだしました。
「もしかして自転車に乗ったりしたからまた痛めたかな?」程度の認識で一応病院に連れていくことにしました。これが初回なら、病院にすら行ってなかったと思います。
近くの整形外科に連れていき、「心配なら無料だしMRIも撮ったら?」と言われ、普段なら絶対に断ったはずなのになぜか受け入れてMRIを撮るために別の病院に行きました。これは自分の性格上、なぜ受け入れたのか説明がつかない不思議な出来事だったように思います。
後日病院から連絡があり、「お母さんだけ病院へお越しください」とのこと。胸騒ぎがして、妻に断りを入れて僕が一人で病院へ行きました。
結果、癌でした。仙骨部のユーイング肉腫。天地が逆さになるような、どこから声が出てるのか分からない泣き声が出ていました。
妻や親族に連絡して、みんなで抱き合って、絶対に治そうって。書きながら涙が止まらなくなるね。これが始まり。
妻と息子は病院へ。娘と父は日常の中で。
ここからが8ヶ月間に渡る闘病生活の始まりです。今もですが、当時も絶賛コロナ禍で、まず面会に行けない。夫婦合わせて2週間に2回のPCR検査の枠があり、片方しか病室に居ることはできません。つまり、妻が外出、僕が病院に行く、僕が外出、妻が病院に戻る、そうするともう次の2週間までは一切の出入りができなくなるわけです。
仕事柄、僕は病院に行けても朝から夕方まで。貴重なPCRを使うのに効率が悪い。
僕が息子に会いたい気持ちよりも娘がママに会いたい気持ちを優先してあげたい。割と序盤にその思いが強くなりました。だからこそ、僕はこの闘病生活の間に息子とは両手で数えられる程度しか顔を合わせていません。娘は当時小学1年生でした。いつもママママママママ。そんな娘が突然ママに会えなくなったっていうのに、娘は本当にワガママの一つも言わず、寝顔を見ながら何度も泣きました。この子に救われました。本当に。書ききれないくらい辛いことが多かったのに、娘はこの期間も真っすぐ育ってくれて、今では以前とは比較にならないくらい仲の良い父娘になりました。
抗がん剤治療と手術とコロナ
抗がん剤治療は控えめに言っても地獄だったと思います。息子はVDC-IE療法という、子供の回復力を有効活用したいわゆる集中投薬療法を行っていました。種類の違う抗がん剤を交互に投薬することで癌が抗がん剤に適応しないように攻撃し続けるようなイメージです。息子の場合は「D-ドキソルビシン」が非常に辛かったらしく、顔は青ざめてげっそり。
投薬期間は常に尿の量を量らないといけなくて、早朝であろうが夜間であろうが息子がトイレに行くたびに妻は起きて、尿を採ります。産まれたてのあの頃のような。病室は狭く、妻は一脚の椅子に座り、夜は簡易ベッドに横になる生活でした。満足に寝ることも出来ず、大好きな娘に会うことも出来ず、目の前には苦しむ息子がいて、僕は仕事。妻が壊れないか心配で心配で、毎日電話していました。
抗がん剤治療の効果
抗がん剤治療について事前に説明があっていました。このVDC-IE療法を用いてどの程度原発細胞が小さくなるかで予後が大きく変わります。
息子の癌は仙骨部にあり、その周辺には重要な神経が多くあります。小児の仙骨部ユーイング肉腫は非常に稀で前例がほぼ無く、抗がん剤の効き方でオペの難易度が変わるとのこと。おそらく全摘出は難しく、最終的には放射線か陽子線で焼くことになるだろうと。
結果、奇跡的に効果は抜群でした。当初の想定を遥かに凌ぐ効果を得て、全摘出を前提としたオペに入ることになりました。これは奇跡としか言いようがありませんし、息子の生命力の賜物だと思います。
オペ前日と当日とコロナ
妻と一緒に、心から喜んでいました。全摘出ならば予後が全く異なるからです。しかし、一筋縄ではいきませんでした。
途中、院内にいるにも関わらず息子と妻がコロナになり、オペが延期されました。
再度日程を調整していざ手術へ。
オペ前日、執刀医がコロナの濃厚接触者になり、オペに入れなくなりました。バックアップにいた先生がオペを行うから心配ないと連絡をいただきました。
オペ当日、バックアップの医師がコロナの濃厚接触者になり、オペに入れなくなりました。
別の医師チームから説明を受け、初対面の医師たちと話しました。
「延期する選択肢もありますが。」とのこと。
できるなら専門医の方にお願いしたいという気持ちはもちろんあります。しかし、原発細胞が息子のお尻にいる以上、息子の死の確率は上がる一方です。
僕は以下の通り伝えました。
「僕はあなた方を知らないし、あなた方も僕ら家族を知らないでしょう。あなた方がプロであることは知っています。最善を尽くしてくださることも知っています。ただ、もしもあなた方にお願いした場合に息子に重大な後遺症が遺ったら、僕はあなた方を恨むと思います。その気持ちを受け止めてくださいますか?絶対に今すぐにでも手術を行うことが息子の命にとって最善なことくらいは理解しています。万が一の時に行き場のない気持ちを今日初めてお会いしたあなた方が受け止めてくださる覚悟があるなら、技術的に専門医の方に負けないと仰っていただけるなら、是非お願いしたいと思っています。」
これがオペ当日の出来事です。結果、最高のオペを行っていただき、感謝しかありません。
病院での息子の生活
オペが終わってから、親としてはかなり心が軽くなったように思います。だって、癌の親玉がいなくなってますからね。そこからも長かったけど、抗がん剤の治療を続けながら8ヵ月半くらいかけて息子は退院しました。
病院での息子の生活は、信じられないかもしれませんがすごく楽しそうでした。小児病棟には本当に辛い病気を抱えた子供たちが入院しています。塞ぎ込む子だってもちろん。これは息子と妻の自慢になりますが、僕の家族はひときわ強かったと思います。入院中も息子とフォートナイトしていました。病気の息子が銃を持って元気に走り回ってる様は不思議な光景で、僕のフレンドは子供たちばかりになりました。消灯前には他の子や親を誘ってみんなでUNOしたり、妻と息子はとにかく強かったみたいです。いろんな先生に言われました。とても誇らしかった。
今でも病院で知り合った子たちと仲良くゲームしています。オンラインで。
退院後の心境と親としての行動
つらつらと書いてきました。この記事が、今悩んでいる誰かの支えになれば幸いです。そして、その後のリアルも記載しておきます。
「僕ら夫婦は息子が大人になる将来を前提として生活ができない。」
これは僕ら夫婦のリアルです。
いま、一緒に過ごせる時間を精一杯楽しく生きよう。将来の息子にではなく、いまの息子と生きよう。妻とよくそんな話をします。
僕ら夫婦にとってはそれくらいの強烈なトラウマとなる出来事でした。いまの息子と向き合っていく中で、いつの間にか息子が15歳になってたら、20歳になってたら、30歳になってたら、これが僕ら夫婦にとって最高の幸せなんだと思います。書きながら涙が止まりません。
病気を知る前の楽観的な家族には戻れないけど、一瞬一瞬を大切にして他の人の何倍も小さな幸せを実感できたなら、それは誰よりも幸せなのかもしれません。
さいごに・・・
僕らは「不幸中の幸い」が当てはまる部類だと思います。癌の中でももっと難しいものもあります。病気で苦しむ子供たちと触れ合って、病気で苦しむわが子を見て、その家族の痛みを知りました。
いまの自分に何ができるかはわかりません。でも知ってしまった以上、絶対にこの経験を子供たちに還元できるよう努めたいと思います。
辛い時は誰かに相談してください。誰もいなければ、僕でよければ相談に乗ります。誰かと共有しないと乗り切れないことは自分自身強く自覚しています。
みんながみんな、最高の結末を迎えられるとは思いません。それでも進んでいくのが人生です。残酷なものですね。
傷を舐め合って、支え合って、生きていきましょう。