昨日、ばあちゃんが死んだ。
連絡を受けたときは店の営業時間中で特に実感もなくて、「あ、死んだんだ。」って感じ。父方の祖母で生前は甘えるより気を遣ってきた印象だった。じいちゃんも歳だし親父に負担かけたくないし叔母さんたちも事情があって、兄が事後対応をすることになった。もちろん僕も駆けつけた。
ばあちゃんが横たわってるのに何の感情もなかった。じいちゃんと親父が心配だったからかな?夜の10時くらい。
親父は翌日も仕事のための仕入れがある。じいちゃんとばあちゃんが創った鮮魚店だからかな?親父は泣きもせずに仕事のために帰った。哲郎と浩希に任せるって。よろしく頼むって。
葬儀場に移動して葬儀の見積もりを取るにも舐められてて、僕らとは話したくなさそうな担当さん。僕は激昂、兄は親戚一同への委任許諾を得て、じいちゃんを起こして僕ら兄弟が打ち合わせを進めた。
そこから先は電光石火で、通夜の段取りから葬儀、火葬、香典返し、お食事、全て決めた。普段絶対に起きてないじいちゃんも2時間弱の打ち合わせにしっかりと頷きながら、哲郎くんと浩希くんに任せるって。
書きながら泣きそう。
兄は鮮魚店の仕事をするために昼から店に戻って僕は通夜の準備を進め、今は兄が通夜に出て僕は仕事してます。
逆に明日は僕が葬儀に出て、兄は仕事です。
明日の葬儀で僕は自分の息子達に人が死ぬことを全力で伝えようと思ってます。ばあちゃんを通して子供らが学べる最期の場です。真剣に、「人は死ぬ。」って、伝えようと思います。
枕経を終えて、お坊さんが言ってた。「死後の顔は煩悩から開放された顔。煩悩は顔に最も現れる。喜怒哀楽は全てが煩悩で、だから生きる全ての人は外道。煩悩から開放された亡き人に仏の道を学ぶ。」って。
湯灌を済ませて棺に運ぶときのばあちゃんの顔はとても綺麗で幸せそうに見えた。
今を生きる。とか、誰もが言う言葉の端々にこういった体験・経験が隠れてるんじゃないかな。生きてるうちに喜怒哀楽を表現し続けて多くの煩悩を抱える人ほど、安らかな表情で眠りにつける、それが「今を生きる。」ってことじゃないかな。
ばあちゃんが最期に教えてくれたことは僕が初めて知ることで、人が最期に教えられることはこれだけな気がする。
全く泣かなかったのに、一人で営業準備しながらWANIMAの1106聴いたらボロボロ泣いた。
ばあちゃんが大好きだったわけじゃないよ!でもばあちゃんおってくれたけん俺がおるし、俺の子供がおるよ!じいちゃんのことも親父のことも心配すんな!兄貴と俺に任せとけ!
安心して逝ってこい!!
Hiroki Yoshitani